富田俊明

プロジェクト

水源への旅
写真、ドローイング、碗。 淡路町画廊、東京、1995年


・・・・・・最初の個展はその頃よく見ていた水辺の夢に由来します。夜の夢に関連する行為を昼間の世界で行うことで、その行動が夜の世界に再び影響を与えるのではないか、夢と現実とに共通する何かが現れるのではないか、と考えました。旅と夢によって、外と内に触れようとしていました。旅と夢がお互いに喚起し合っています。・・・・・・この時はあえて自分を閉じました。どこで自分というものが終わって、どこから他者というものが始まるのかを見極めたかったからです。以降、自分を開く方向に展開していきました。
(富田俊明・述、インタヴュアー・平野到「パスワード」展カタログより)



なにを動機に、なにを拠り所に創作に関わるのか。流行として推移する美術動向に翻弄されずに創作を持続できるか否かは、この問いをどの程度自覚しているかによるといえる。富田はこの点を思慮しながら、自分自身を拠り所にして展覧会にのぞんだ。
扉を開けひとりずつ暗がりの会場にライトを持って入ると、小さな白黒写真と、写真にも象徴的に登場する水をたたえた器がある。展示には随所に走り書きの素描や注釈が挿入され、三階まで一連の話をもとにつづいていく。その内容は、夢に水辺が出現したことを契機に、作家が幼いころに訪れた水源をふたたび辿りあてるというノスタルジックなドキュメンタリーだ。
自分のための行為から成り立つ本作品は、確かにナルシシズムが顕著で、ひとりよがりの自己告白の日記にすぎないという批判にさらされるかもしれない。だが、その一方で、創作の動機は曖昧でも誇大でもなく、自らの実感がこもったものであり、作品には確固たる世界が存在している。この作者個人の世界に他者が共感できたとき、自己中心的行為は開かれた創作となり、おのずと芸術的行為にまで昇華していくのである。芸術のための芸術や社会のための芸術がはじめにあるのではなく、芸術は個人の営みから少しずつ生じてくることをあらためて考えさせられる。
(平野到 「美術手帖」1996年3月号展評)


会場風景
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