富田俊明

プロジェクト

非編集雑誌
ファックス、手紙、ドローイング、コピーを使ったイヴェント、1998年


通常、1対1のコミュニケーションのために利用される手紙やファックスなどのメディアを使って、互いに見知らぬ人々の複数のメッセージを交換する試み。付属するタグや、編集やデザインを施されない情報の伝達は、コミュニケーションを支えている“信用”の存在を浮かび上がらせ、気付かせる。ぼくが設定したこの“あやしい”ゲームのなかで、人は誤解や不安を感じながら、残されたわずかな手がかりから、信用できる何かを探り出そうとする。そこには、単なる情報の受け手である以上の、情報への積極的な関わりが生まれる。自己意識と他者との関係へのレセプターの拡張。


問>もし、あの他者の手紙の中に、何らかのかたちで、富田が何かを込めて送っているのだとしたら、なんだか富田の言いたいことが、すごく分かるような気がします。(真実は、思い込み80%ぐらいですか?)でも、もしかしたら、本当は、全然富田自身のメッセージのないものなのですか。だったらすごく寒い気がします。富田が、どんな気持ちで、手紙を作ったのか、本当のことが知りたいです。


答>実は、あの手紙は、以前話していた“雑誌”の一部です。ぼくはこれを、“非編集雑誌”と呼んでます。ぼくの願いは、「手紙」の中にも、外にも、あります。それから、手紙の内容は、ぼくのメッセージとしても、機能するかもしれません。(実際のところ、ぼくには、そんな希望がありますが。)でも、それは、受け手の思い込みかもしれないんです。それは、信用ってことなんですね。
単にあるメッセージを伝えたいだけなら、もっと効率(だけ)がいい方法がいくらでもあるでしょう。でも、こういう”あやしい”やり方では、人と人との間の“何か”が浮上してくるんですね・・・。
編集されない世界の中で、編集されないままに、何かを明らかにしながら、何かがあやしいまま・・・そんななかで何かを交換したりすることはできるでしょうか?
ぼくは何かしら願うことがありますが、それをはっきりと形にしたり、見せたりするのは益々難しいと思います。それよりも、ひとつの願いが、他の何かを呼び出して、はじめ一つだったものが、すでにいくつもの何かになって・・・という方が、面白い。
誤解する自由や、不安に思う自由、そういうのを、こちらもおそれて、“正確”に伝えようとするのではなく、そんなことを、それぞれに、感じる自由を。

制作当時のメモ (1999年1月21日)