富田俊明
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沙子泉
インスタレーション、紙に水彩、テクスト、ポータブル・カセット・プレイヤー、ヘッドセット。 ガレリアラセン、東京、1999年


・・・・・・ある時友人が突然、ぼくの内面に砂漠の泉のイメージがあるといいました。ちょうどその頃、ぼくは内面の水のイメージを≪水源への旅≫とは別の形で作品化しようと考えていたので、意外に感じました。もちろん、≪水源への旅≫を知っていた友人が泉のイメージをぼくのなかに見ることはありうると思いました。また、単なる偶然として無視することもできた。でもぼくはあえてそこに意味と不思議を見ることに決めました。その方が面白いから。共時性の視点からこの出来事を見ることで、背後により大きな水景を暗示できると思ったのです。そういうぼくの見方がこの作品の発端になっています。そこで、その泉のイメージの水彩画をその友人に描いてもらい、ぼくの育った地域の人たちにインタヴューを始めました・・・・・・最初から物としての作品よりも、制作過程でそれまで見えなかったものが見えてくる点に注目していました。たとえば絵を描くことより、その絵がまったく別の意味をもって見えてくることの方が面白い。見方が変わるのは意識が変わるからです。作品は完成した後も、作り手の意図を超えて色々なことを教えてくれる場合があります。 
(富田俊明・述、インタヴュアー・平野到)パスワード展カタログより


まるで夢のように、細部まで明晰な謎。意味はわからなくとも、描くことはできる。そして、一度描かれ、そこに注意を向け続けるなら、意味は必ず顕われる。絵と人間との間には、何か魔術的な磁力が働いているに違いない。


ある地勢。語られずにいる秘密。語られずにいる何かを感じ取る力。
もし大切な何かが、すでに誰か見えているなら、どうしてそれを描く必要があるだろう。
みんながもしそんな風に感じるようになったら、もう画家は要らなくなる。


観客はウォークマンを借りて、富田と絵を描いた友人との対話を聴くことができる。イメージが語られるのを聴くこと。(絵・澤登恭子)