富田俊明
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泉の話
インスタレーション、紙に水彩、写真、スピーカー、アンプ、著書『泉の話』。 横浜トリエンナーレ2001」、パシフィコ横浜展示ホール、横浜、2001年



横浜トリエンナーレ2001での展示風景
東北芸術工科大学での展示風景

・・・・・・同時に<横浜トリエンナーレ2001>での展示を考えなければなりませんでした。それは生きたものを剥製にするような感じでした。国際的なイベントで地域発の作品を世に問うことに意味を感じましたが、違和感も大きかった。何かが欠けていたんです。母校の小学校でのワークショップというアイディアが私にやってきたとき、やっと≪泉の話≫がどこに行きたいのかが分かりました。地元の小学生に会うことで、私は複数のレベルでやってきたワークを一つのお話として織り合わせ、生きた場で語ることができたのです。物語は子どもたち自身のイメージとも織り合わされて活き活きとしてきました。新住民と呼ばれた一人として、自分の育った土地を神話的な手続きによって家郷として創造し直したいという個人的な願いと、インタヴューした地元の老人たちから受け取った話は、子どもたちとの出会いによって、ひとつの円環に結ばれました。子供たちとのワークを楽しみながら、私は自分が現代の時間だけではなく、語り部が焚火の傍らで土地の神話を語ってきたあらゆる場所、あらゆる時に属している、と感じました。この円環のドキュメントがトリエンナーレの≪泉の話≫です。
(富田俊明・述、インタヴュー・平野到「パスワード」展カタログより抜粋)


・・・・・・このようにして、『泉の話』(横浜トリエンナーレ2001)は、かたちを表していった。展示スペースには、この作品を生みだすきっかけになった澤登恭子さんによる《沙漠の泉》の絵、富田俊明が子どもたちに土地の地誌や伝説をつたえるために描いた絵、そして大野台小学校の生徒たちが『泉の話』を聞いた後に、それぞれがいつも通ったり遊んだりしている地域のなかで好きな場所を選んで、そこで感じていることを自由に描いた絵が展示される。同時に会場の内には、本書の第二部「泉をたずねて」の聞き書きをあつめた際に録ったインタヴューの一部が再生される。
記憶の通路のようにほそく長いそのスペースを訪れる人は、何層もの時と記憶を伝える声や、時の層をこえて生きるヴィジョンが交錯する場所に佇み、歩むうちに、人が生きる器としてのひとつの土地と、物語という泉の奥へと誘われていく。
『泉の話』付記より抜粋)

ドキュメント・コーナーで観客に明らかにされるとおり、感情に掲げられた絵は全て、母校の小学校で描かれ語られ聴かれたことがわかる。著書『泉の話』にも、物語と物語の生成のプロセスは織り込まれている。つまり、ここには、物語が生まれ、語られ、聴かれ、演じられ、生きられた、というドキュメントが展示されているのだ。ある種の作品、イメージ、物語には特定の誕生地があり、だからこそ聴き手を選ぶのだということ。そしてそのような聞き手も含めて作品=物語はあるのだということ。今やグローバルに資本主義と消費者意識に覆われたかに見える世界(アートシーンも含む)に抗して、土地と人の帰属をローカルに保証するイメージと物語、語り手と聴き手の在り方を、国際的な展覧会にて、世界に問いかけている。

photo: Keizo Kioku